実務解説 (転載禁止)

交通事故の実質的心証の形成について

1 判決には実質的心証をそのまま記載するべきである

 民事訴訟の事実認定の局面では裁判官は当事者双方の主張と全証拠を精査して、「何が起きたのか(生じた可能性の最も高い事実は何か)」の実質的心証を形成していきます。自由心証主義(民事訴訟法247条)は証拠方法を限定せず全ての証拠を自由に評価することを中核とします。判決では実質的心証の裏付けのある事実認定がなされることが求められています。空洞化したスカスカの心証で特定の証拠のみに着目して結論を決めることは求められていません。事実認定の局面では要証事実に関する裁判官の心証度(心証の度合い)が、証明度(物事を立証するために要求される証明の程度)を超えた場合に証明主題の存在を認定できます(通説)。  私は判決の「事実認定」の項目では裁判官が獲得した実質的心証をそのままの形で記載すべきと考えています(これを心証開示説と呼ぶことにします)。即ち、心証の程度が分かる表現を判決に記載するべきと考えています。これにより裁判官が誠実に事件に向き合って実質的心証の裏付けのある事実認定をしたことが明確になります。裁判官が心証の内容を開示することは当事者の裁判に対する納得感を高めることに寄与します。


2 心証をできるだけ開示しない裁判官も多い

一方で裁判官の実質的心証がはっきりしない判決も多いです。事実認定の局面で証明責任の所在を考慮して「~であるとは認められない。」との表現を多用し、そこに至るまでの判断過程や事件全体の最終的な心証がはっきりとしない判決です。着目した間接事実に言及しても間接事実を指摘・列挙するだけでそこからの心証形成過程をはっきりと述べないことが多いです。 この表現を用いる裁判官は「心証を書く場合には不確実な心証の開示はすべきではなく明確な根拠に基づく確実な内容のみを心証として判決に書くべきである。」、「要証事実の認定に直接に関わらない心証の開示は法の求めない余計な心証開示である。」、「無駄な心証開示は極力避けるべきでありそれが法的にも正しい」、との考えであることが窺えます(これを「心証非開示説」と呼ぶことにします)。 心証非開示説は「少しでも誤りがあれば批判を受ける余地が生じる。」、「できるだけ批判を受ける余地を減らすべきである。」との保守的・消極的思考が背後にあるように見えます。判断の無謬性にこだわり過ぎることは証明度を高くし過ぎる誤りに陥りやすくします。一般的には証明度は80%ほどの心証で足りるとされていますが、保守性の強い判決では95%超の心証を求めているように見えるものもあります。 もとより判決の述べた結論の背後に実質的心証が存在していれば、心証開示説・非開示説による事実認定の差異は生じないはずです。しかし、現実には「~であるとは認められない」との表現の背後にはその表現のとおりの心証しか存在しないことがほとんどであると感じます。即ち、「~であると認めることができるか」との形で特定のハードルを越えたかどうかのみに着目した心証のみが形成されている場合がほとんどであるように見えます。文章表現に合わせた思考をすることはごく自然なことです。しかし、この視点で検討することは様々な問題を引き起こす致命的な誤りです。しかしその認識が法曹に共有されていません。


3 事実認定に証明責任を持ち込む誤り

事実認定のレベルで証明責任の所在を考慮して「~であると認めるほどの証拠があるか(~と認めるに足りる証拠はあるか)」とのハードル型の検討することはいくつもの誤りを含みます。 第1に、事実認定とは「何が起きたのか(生じた可能性が最も高い事実は何か)」の実質的心証を形成することです。それに対して特定のハードルを越えたかのみに着目した検討は、「何が起きたのかは措くとして、とにかく~と認めるに足りる証拠はない」との結論でも許容されます。即ち、事実認定の局面であるにも関わらず「何が起きたのか」の実質的心証を形成しないまま結論を出すことが許容されるという極めて致命的な問題があります。 第2に証明責任は事実認定の道具ではないため事実認定の局面で考慮することは許されないとの法的制約があります。「自由心証の尽きたところで証明責任はその機能を開始する。」とされるように、事実認定の局面で要証事実の真偽不明が確定した後に、法規適用の局面で機能するのが証明責任です。事実認定の局面では証明責任の所在を一切考慮することなく、生じた可能性の最も高い事実は何か(何が生じたのか)を追求する必要があります。その結果たどり着いた全体像の一部である要証事実について、証明度が満たされた状態かを法規適用の局面で検討することとなります。 これに対して、事実認定の局面で証明責任を考慮した思考を行い一方当事者に証明のハードルを課した状態で検討し、法規適用の局面でさらに証明責任を適用することは当事者に二重の不利益を課すことにもなります。 第3に、事実認定の局面では「何が生じたのか(生じた可能性が最も高い事実は何か)」の心証を形成すべきであり、「~であると認めるほどの証拠があるか」を検討することは、実質的心証の空洞化を生じさせます。たとえば、「~であると認めるほどの証拠があるか」との検討を行い、「何が生じたのかはおくとして、とにかく~であるとは認められない。」との判断をすると、結局何も認定しておらず実質的心証が空洞化します。事実認定の局面で証明責任の視点を持ち込むと何の結論も得られずに心証が空洞化してスカスカになるという致命的な弊害があります。 第4に、事実認定の局面で「~であると認めるほどの証拠があるか」を検討することは、「~であると認めなかった場合の代替説明が考えられるか」との思考をできなくする致命的な欠点があります。事実認定の局面で実質的心証の形成が行われる場合には、事案全体の事情からは「代替説明が考えられない」との思考を行うことができます。しかし、事案全体の実質的心証を形成しないまま部分での検討で「~であると認めるほどの証拠があるか」との検討を行うと事案の全体像との整合性の検討ができず、「それを否定した場合の代替説明がありうるか」との検討ができなくなります。代替説明(他原因考慮)の欠落は思考の範囲を極端に狭める致命的な誤りです。しかし、そのことを知らない法曹が少なくないようです。 例えば、交通事故後に鎖骨骨折が判明した場合に、事故車両の速度・重量、衝突角度、鎖骨に加わった質量、鎖骨の強度、事故時の体勢などの細かな事象を認定して事故により鎖骨骨折が生じるべくして生じたメカニズムを解明することは不可能と言えます。この点を指摘して「その事故によりその結果(鎖骨骨折)が生じたと認めることはできない。」との認定をすることは明らかな誤りです。 実際には一般人は「事故以外の原因は考えられない(代替説明が考えられない)。」との理由で即座に結論を導きます。その結論の正しさは相手方から事故に代わる可能性がある代替説明が提示されるまでは何らの疑いをもたれることもありません。この場合に代替説明の論理が使えないとの縛りがあると、因果関係の認定ができるのはごくわずかな極めて限定された事案のみとなり、ほぼ全ての場合に誤った因果関係の判断がなされることとなります。このように代替説明の概念は思考の範囲や柔軟性を飛躍的に上昇させるものですが、その代替説明という手段が奪われることは思考範囲を劇的に狭めます。 因果関係判断に関する最高裁判例では、他原因考慮(代替説明)は何回も言及されています。実務解説の「因果関係判断の準則・ルンバール事件最高裁判決等」や、判例解説の「東大病院ルンバール事件の謎に迫る」の冒頭で挙げた裁判例などを参照して下さい。 第5に、求める証明度を高くし過ぎる誤りを併発しやすいとの問題があります。心証非開示説の根底には「少しでも誤った判断をしてはならず、誤った可能性のある心証を開示してはならない」との保守性があります。そのことが求める証明度を高くし過ぎる誤りに親和的であることは否定できません。即ち、高いハードルを越えるほどの確実性のある事実のみを認定するとの思考です。 また実質的心証が空洞化して事案の全体像との整合性から結論を導くことが困難な状況で、要証事実に近い証拠のみから心証を形成する傾向があるため、「部分での検討のみで結論が出せるほどの強い証拠か」との見方で、証明度が高くなりやすいとも言えます。 このことは近時の多数説(通説)は民事訴訟の証明度を50%超とする傾向との乖離を大きくします。民事訴訟の本質は私人間の私的紛争であるため「どっちの言い分が正しいか」の視点から証明度を50%超とすることは合理的とも言えます。これに対して80%とする伝統的通説は「いやしくも国家機関である裁判所が判断を下すからには相応の十分な根拠が必要である」との権威主義的な面があります。しかるに証明度を90%超とするのは根拠を欠く明確な誤りと言えます。


4 要証事実の真偽不明と否定の認定との違いについて

「~であるとは認められない」との表現の意味について、①証明責任を適用する前提として真偽不明となったことを述べているのか、②要証事実の不存在の実質的心証が形成されたことを述べているのか、表現からははっきりしないとの問題もあります。上記のとおり、①の理解は自由心証に証明責任を持ち込む誤りであるとの問題があります。一方で②はなぜ「~ではないと認められる」と否定の事実認定をしたことを明示しないのかという問題があります。  この点については、結局その要証事実が認定されずに要証事実の証明を前提とした法規の適用もされないのであるから、「~であるとは認められない」の意味が要証事実の真偽不明であるのか、要証事実の不存在の事実認定であるのかを区別する意味はないとの反論も考えられます。  しかし、証明責任は真偽不明の場合にその事実の証明を前提とした法規が適用できなくなるとの概念であり、真偽不明との事実認定と要証事実の不存在の事実認定では全く異なります。例えば否定の認定ができたのであれば、その認定を他の間接事実の認定の基礎とできます。真偽不明であればそれはできなくなります。この点の区別ができないまま、真偽不明として法規の適用を否定した結果から遡って否定の事実認定がなされたとの扱いをしているようにも見える裁判例をしばしば見かけます。しかし、これは証明責任による事実認定であり、明らかな誤りです。  この問題の背景には非開示説では事実認定の精度が低下していることが指摘できます。即ち非開示説では判決に書かない部分の心証形成がしっかりとなされていないとの印象を受けます。記録をしっかり読み込み全体の骨格についての心証を形成するという作業を省略して、ピンポイントに争点部分に限定した不十分な心証形成を基盤にして「何が起きたのかはっきりしないが、とにかく~であるとは言えない。」との趣旨になりやすいです。  心証形成の理由や心証の程度を判決に書かないことの延長として実質的心証が空洞化しているのではないかと疑問に思う判決もあります。
この点は直接証拠中心主義に対しても言えます。証拠全体ではなく直接証拠だけをピンポイントに観察することにより心証に厚みがなくなり、事案前提の整合性に問題が生じやすくなります。間接事実の検討を省略することから間接事実との矛盾も無視することになります。無視した間接事実に難癖をつけて検討対象から除外しているように見える裁判例もあります。その前提として間接事実にも証明責任を適用しているようにも見えます。これは明らかに民事訴訟法に反しています。


5 間接事実に証明度を求める考えについて

間接事実に証明度を求めないことは民事訴訟法では当然のことですが、これに反対する論考も少なからず存在します。即ち「事実認定を行う際にその判断の基礎とすべき間接事実は、原則として合理的疑いを容れない程度に証明された事実に限定されていることが多い」(村田渉「推認による事実認定例と問題点」『判例展望民事法Ⅲ』196頁)として実務ではこちらが支持されているとします。実際にも間接事実について「~であるとは認められない」として証明責任類似の絞りをかけているように見える裁判例はCRPSの判例解説で扱った事件でも頻繁に目にしました。  しかし、間接事実について何らかの不確実性があることを理由としてその証拠価値を否定することは「弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌」すべし(証拠方法の制限は認めない)とする自由心証主義(民事訴訟法247条)に反します。「不確実性のある証拠からの心証形成はしない」との方針で証拠を選別して絞り込みをすると実質的心証が十分に形成できない弊害も生じます。ほぼ全ての証拠には何らかの不確実性があり、難癖をつければ証拠能力を否定することができます。そのような証拠でも「通常は~であることを示唆する(裏付ける)」との独自の証明力を有しています。一見整合しないように見える事実でも当事者に釈明すると納得できる理由が存在することもかなり多くあります。その種の間接事実を検討対象から外すのは認定の厚みがなくなるのみではなく、事案全体の正確な把握から遠ざかることとなります。  間接事実に証明責任を適用している裁判例においては、その判決の結論に都合の良い間接事実は積極的に取り上げ、都合の悪い間接事実は難癖をつけて証拠から除外するという確証バイアスの典型的な出方をしているようにも見えます。臨床でのCRPS(RSD、カウザルギー)との診断を否定し、実質的に被害者を詐病と認定した裁判例は非常に多く、これらは「医師が患者に迎合して心ならずも虚偽の診断をしてしまった」とのニュアンスを臨床での診断の価値を否定する根拠にしているようにも見えます。このレベルの思考で証拠の価値を否定できるとなるとまさに「なんでもあり」になります。正しい検討方法では自説に都合の悪い主張や証拠にこそ細心の注意を払って検討することになります。


6 証明責任は法規適用の有無を決めるサイコロです

 事実認定の過程を経た法規適用の局面では、実質的心証が要証事実の存在の証明度を満たしている場合にはその事実の証明を条件とした法規の適用が可能となります。これに対して実質的心証が要証事実の存在の証明度を満たさず、不存在との心証も得られなかった場合には、即ち真偽不明の場合には、その要証事実を要素とする法規の適用ができるかどうかが定まりません。その場合に裁判を拒否する権限は裁判官には認められていません。そこで裁判官は証明責任を適用して法規の適用という結論を決めます。証明責任は、「ある事実が存否不明のときには、いずれか一方の当事者がその事実を要件とした自己に有利な法律効果の発生が認められないことになる危険または不利益」(新堂)などと定義されます。  ここで注意すべき点は、証明責任は法規適用の結論に沿う事実を遡って認定するものではないことです。証明責任はあたかも問題が解けなかった受験生が振る五角形のサイコロ(愚者のサイコロ)のようなものであり、双方の主張と証拠調べの結果要証事実の事実認定ができなかった無能な裁判官に使用を認められたサイコロです。「とにかくマークシートを埋めなさい(法規適用の結論は決めなさい)。」との指令に従いサイコロを振ったということは、その部分について事実の認定ができなかったということであり、サイコロの出した目に従って事実が認定できるわけではありません。「何が起きたかわからないけどサイコロで法規適用の結論だけは決めましたよ。」が証明責任の適用です。  私は自分で考えて出した結論とサイコロの出した結論では前者の方が正答率は高いと思います。優秀な裁判官であればなおさらです。裁判官は証明責任に頼らず実質的心証の精度を高めることにより事実認定をすることが求められています。


7 すごろく判決

 判決のなかには「~であるとは認められない」と述べた事実を真偽不明ではなく否定の事実認定として扱い、その先の部分でその補強となる事実を述べて細かな事実認定をしているものもあります。  上記が「~ではないと認められる」との表現であれば否定の事実を認定したと理解できますが、「~であるとは認められない」との表現から否定の事実を認定したと理解することはできません。即ち「~であるとは認められない」との表現は証明責任を満たすほどの心証に至らなかったことを示します。上記のとおりこの理解は自由心証に証明責任を持ち込む誤りを前提としますが、実務上この誤りは頻繁に目にします。  それを論点ごとに繰り返すと、証明責任のサイコロで事実解明をしているように見えます。私はこれを「すごろく判決」と呼んでいます。すごろく判決を書いている裁判官は「証明責任が導いた結論は法的に正しい結論であり、その結論に整合する事実も法的に正しい」との感覚があるようにも見えます。それゆえ証明責任を多用すべきであるとも考えているようにも見えます。しかし、「わからない」を積み重ねて事実認定をすることは正しくありません。  証明責任を適用した後にそれに沿う間接事実をつまみ食いする構造になっているのは、証明責任で大枠の事実認定を決めて細部を間接事実で補強したように見えます。しかし、証明責任は真偽不明を前提とするものなので証明責任で何らかの事実が認定されたとするこの考えは誤りです。間接事実を総合した結論として真偽不明になったはずなのに、証明責任を用いた後で間接事実により事実の認定を行うおかしな構造となっています。


8 全体考察のない真偽不明による証明責任の適用

 事実認定では確実性の高い諸事実から取得した前提事実に対して、新たな事実を合理的に整合させるための「仮説の投げかけ」が行われます(村田渉「推認による事実認定例と問題点」『判例展望民事法Ⅲ』191頁、土屋文昭『民事裁判過程論』101頁参照)。即ち、仮説の投げかけで全体との整合性を考えて事実認定を行い、その結果要証事実が真偽不明となったとの経過が前提として存在しているのであれば、証明責任による事実認定の後でそれに整合するように間接事実をつまみ食いすることで整合した全体像とすることはできないはずです。  それができるのは、①局所的な事実認定しか行っておらず、全体としての整合性を考慮しないまま真偽不明として証明責任に頼ったからではないかとも考えられます。または、②事実認定の局面で証明責任を負担する側が証明すべきハードルを課して、それを超えたか否かのみを全体との整合性を考慮せずに局所的に判断しているからではないかとも考えられます。  実際にも私の判例解説の中では全体像のないまま証明責任に頼った事実認定がかなり多くありました。この場合には認定した事実が導く帰結があまりにも不合理となります。例えば、医師が長期間にわたって被害者の詐病に騙されて、手術時にもそれに気づかなかった。もしくは医師が被害者に迎合するなどして被害者の詐病の協力者となった、との非常に不合理な帰結が不可避的に導かれる事実認定となっている判決です。その事案の多くは被害者を治療した医師が認める被害者の症状が重篤で障害者手帳や行政による援助などの状況から被害者の主張する症状が確実に実在すると考えられる事案です。発症理論や骨萎縮必須論を先行して検討して被害者の後遺障害を否定する結論を先に決めてそれに沿うように被害者の詐病を示唆する認定を述べる判決は非常に多くあります。しかし、判決が認定した事実の先に不可避的に存在することとなる事実があまりにも不合理である場合には、その不合理を直視するべきです。


9 証明責任に頼り過ぎる誤り

 私(弁護士)の立場から見ると双方の主張立証を経て要証事実が認定できない事案、即ち裁判官が証明責任のサイコロを振らなければならない事案はめったに遭遇しません。100件に1件もありません。ほぼ全ての事件は証明責任に頼ることなく要証事実を認定することができ、その心証形成の理由を具体的に記載することが困難と思えるような事件はありません。裁判官が要証事実について真偽不明となり証明責任に頼らなければならない事案は数年に1回しか遭遇しないのではなかろうか、本当に優秀な裁判官であれば生涯一度も証明責任に頼ることなく定年を迎えるのではなかろうか、とも考えています。その考えからは裁判官が証明責任に頼ったと受け取られかねない表現をあえてすることは理解しがたいです。「こんなことも判断できずに証明責任に頼ったのか」と疑問に思われるような表現をあえて用いる意味が理解しがたいのです。  裁判官が証明責任に頼り過ぎる理由は、①事実認定に証明責任を持ち込む誤りに陥っている、②証明度を高くし過ぎる誤りに陥っている、③全体構造との整合性の検討をすることなく局所の検討で局所の真偽不明を導いて証明責任を用いている、のいずれかに分類することができます。非開示説の裁判例は多くの場合、この3つの要素を全て備えているように見えます。  証明度を80%超の心証とすると「Aである」が50%超の心証であるにも関わらず、80%超の心証となっていない場合に、実質的心証に反して「Aであるとは認められない」との結論となるというジレンマが生じます。証明責任を90%とするとこのジレンマが生じる心証のグレーゾーンが広がります。このため実質的心証が明確であることは証明度を高くし過ぎない要素となります。一方で実質的心証が空洞化してスカスカとなっていると証明度を高くし過ぎてもジレンマを感じないこととなります。即ち、証明度の高さの問題は実質的心証の密度と関係が深いと考えられます。


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